吉川家永さんは、マウンテン・ハットをちょっと斜めにかぶり、何か物事を考え込むような様子で、愛用のカメラマン・コートのポケットに無造作に両手を突っ込み、やや前かがみの姿勢で足早にあるいて行く。この彼の様子を眺めていると、一種独特な孤独感を漂わせて町や公園を遊歩する若者達の姿を連想させられる。当年、七十六歳になられる吉川さんだが、いつまでも青年のような歩きと内に秘めた熱気が感じられる。
その吉川さんが創り出す作品は、若者にも負けないエネルギッシュで新鮮な輝きがある。近来の作品は、長い針金を何重にも丸め、適当な凹凸状の塊として、彼自身の撮影による写真作品の上に一定の間隔をもって配列し固定させたものである。それは、写真という間接的な視覚表現に、金属の塊を直接打ちつけるという行為の表現を加算させたもので、結果として物言わぬもの同士の連結が、不思議なほどに豊かな言語性を帯びた世界を生みだしている。
作者は、写真パネルに金属の塊をジョイントさせる行為について、いともあっけらかんと「針金を丸めてパネルにくっつけることと、油絵の具を筆でキャンパスに塗ることは、わたしにとって全く同じことなんですよ」と語ってくれる。
戦後、アンフォルメルの運動にいち早く感化を受けた作者は、所属する行動美術協会の展覧会で同傾向の作品を発表した。そして、一九六二年の同協会展では、五年後にアメリカの美術評論家ジェニファー・S・バード氏に評価されることとなった一定のリズム感を持った形態の連続による作品を発表し、いわゆる彼の「配列シリーズ」の始まりとなった。
このシリーズの作品について前述のバード氏は、大画面に類似した模様が繰り返し描出される様を見て、日本の遺産がにじみ出ていると論評しており、とくに、その作画の根底には奈良時代の経典や戦国時代の鎧(よろい)、室町時代の水墨画にみることが出来る高揚した精神性がうかがえるとまで述べている。(「ART INTERNATIONAL」nov・1969から)
吉川さん自身も、油絵を始めたころから日本絵画の独自性の確立を念頭に置いて仕事を手がけてきたという。とくに、その意を強くしたのは、昭和八、九年に名古屋で開催された独立美術協会主催による講演会で、当時の新進気鋭の作家であった伊藤簾や里見勝蔵、林武らの主張した内容と通じるものがあったという。
この思いは、今日においても変わることなく彼自身の創作の源流となっているようだ。そして、戦前の闘病生活の中で手にした仏教書や仏教美術書から示唆を受けたものが作品上で大きく開花しており、素材として油絵の具を用いた時代から、針金やゼンマイ、そして楽譜や写真を転用した時代に至るまで、一貫して流れるのは、一定の配列と方式に基づく曼陀羅図(まんだらず)の世界である。油絵の具を筆で塗ることと針金を丸めてくっつけることは同じですよと、サラリと言ってのける吉川さんの世界に、何かしら浄化された空気を感じてしまうのだ。